音楽雑記
クリスマス・ソング
このホームページで私のライブの予定ページを見ていただければわかるが、最近は老人ホームやグループホームでの弾き語りが多くなった。 私にような程度の弾き語りでも、ありがたいことに12月は、毎年いろいろなところから声がかかる。ソロもあればグループでのライブもある。
当然のように、12月に入れば歌う曲目はクリスマス・ソングが中心になる。
しかし、有名なクリスマスソングは、ほとんどが外国の曲だ。
キリスト教の祭事なのであたりまえといえばあたりまえだ。ソロライブなどで皆さんに聞いていただく場合はそれでも良いが、施設等で入居者の皆さんと一緒に歌うには英語の歌詞は難しい。かといって、日本語で歌えるクリスマス・ソングはとても少ない。無理やり日本語の歌詞をつけた曲もあることはあるが、その歌詞が浸透していないので老人には歌いづらい。その代表格が「ジングルベル」だ。英語ならだれでも知っているものの、これと言って決まった日本語訳がない。日本語でおなじみのクリスマス・ソングは「聖しこの夜」「赤鼻のトナカイ」「もろびとこぞりて」ぐらいなものだろう。日本産のクリスマスソングでは小林亜星さんが作曲した「あわてんぼうのサンタクロース」ただ一曲のみである。
もちろん歌謡曲の世界では山下達郎の「クリスマス・イブ」や松任谷(荒井)由実の「恋人はサンタクロース」など沢山あるが、歌うのは難しい。老人ホームなどで入居者の皆さんと合唱するような曲ではない。
クリスマスでの弾き語りの参考に、クリスマス・ソングの歌集を持っているが、やはり皆で合唱できるような曲は少ない。そして、この種の本に「アメイジング・グレイス」がクリスマス・ソングとして掲載されていることが多いが、なんで奴隷商人を題材とした歌がクリスマス・ソングとして載っているのか不思議である。
まあ、いろいろ屁理屈は置いて、私の一番好きなクリスマス・ソングは「The Christmas Song」という曲だ。定冠詞「The」がついていることもあり「これぞクリスマス・ソング」という感じがする。初版のナットキング・コールのヴァージョンは秀逸だ。
さあ、今晩(12/22)は、うどん屋でクリスマス・ライブ、そして明日(12/23)はグループ・ホームでのライブが控えている。今年最後のライブだ。
親バカが聞いた
現代音楽
カリフォルニアの娘一家は、まさに音楽家族である。娘はパーカショニスト、夫はトロンボーン奏者と吹奏楽指揮者。8歳の孫はコーラスとピアノのレッスンを受けている。
巨大なガレージに車は入っていない。そこには、2台のマリンバ、7つのティンパニー、ドラムセット、などが所狭しと鎮座する。居間にはケースに入ったトロンボーンがいくつも転がっていて、つまずきそうだ。夫婦それぞれプロ奏者として活躍する一方、学校での先生と個人レッスンなどに忙しい日々を送っている。しかし夫婦とは言え、音楽の指向するジャンルは違う。
娘は現代音楽に傾倒、私は今回の旅でも2回現代音楽に触れる機会があった。
現代音楽、なんとも抽象的且つ前衛的な難解な音楽だが、聴いているうちに私も、ほんの少しだけその良さを感じるようになってきた。
このジャンルはCDなどで聞く気はしないが、コンサートなどで実演を聞くと、なんとなく魅力が伝わってくる。
リハーサルでは、娘のパーカッション、声楽、そしてハープの3人のユニットを聞いた(写真)。参考に楽譜を見てみたが、なにやら見たことのない記号や、小さな字で楽譜上の何箇所にも説明書きがある。作曲家の指示だとのこと。
全員プロのこのユニット、このような複雑怪奇な音楽をたった一回のリハーサルで本番に臨むという。
別のコンサートでは、チェロとマリンバのユニットを聞いた。このコンサート、会場はけっして綺麗とは言えないがとても雰囲気のある昔の倉庫のような建物のなかで行われる。これも現代音楽ならではなのだろうか。けっこうお客様も多く、ほぼ満席だった。
聞いているうちに、なんとなく私の頭の中に映像がよぎってきた。そういえば映画では、シーンにあわせ、知らぬ間に現代音楽を聞いていたことに気がついた。考えてみれば、坂本龍一も映画音楽で現代音楽を担当している。
現代音楽は、演奏者同士のタイミング、摩訶不思議な和音など、演奏している人が一番楽しいだろうと感じた。かといって自分が体験しようという気はない。私はせいぜい4/4拍子、3コードで楽しむのが精一杯というところだ。
アメリカでライブ弾き語り
今回のアメリカの旅を計画していた時に、当地に住む義妹から「私の住む小さな町のワイナリーで歌うことになるから、そのつもりで来い」、との連絡があった。しかし、いったいどのような会場でやるのか、もしや誰かと一緒のジョイントになるのか、ソロで歌うのか、誰かの伴奏だけすればいいのか、全く分からないまま渡米することに。重いギターを持っていくのは面倒なので、現地で娘の夫のギターを借りることとし、愛用のピックやカポダスト、チューナーなどは持参した。
そして、11/7の夜、なんの説明もないまま車に乗せられて会場に向かう。場所はMURPHYSという町のBoyle MacDonald Winesというワイナリーのテイスティング・バーだ。
表通りから横に入ったすぐの階段を上がる。ドアを開けたとたんに大勢の人のざわめきが耳に飛び込んできた。ラフな格好の約百人ほどの人がワイン片手に楽しそうに飲んでいる。いろいろな人を紹介されるが、とても名前など覚えてはいられない。そして、このワイナリーのオーナーが義妹の知人で今晩はサンクスギビングデイの前夜祭だということが、やっと判明。私も好きなジンファンデルのワインを頂く。
7時からバンドの演奏がある予定と聞いていた。しかし、4人編成(ギター、ベース、パーカッション、ヴォーカル)のバンドが来たのが7時。ゆっくりとセッティングをしている傍らで小顔の可愛い女性のヴォーカリストを紹介された。彼らは、事前に私が参加することを知らされていたらしい。簡単な打ち合わせでやっと実態が判明。
彼らがワンステージやったあとで私が歌うことに。なんとなく安心半分、緊張半分。彼らの演奏が実際に始まったのは7時半を過ぎていた。いわゆるパーティバンド、なかなか上手だ。とくに紹介された可愛い子ちゃんのヴォーカルはジャニス・ジョプリンを彷彿させる、ちょっとハスキーな声。ビートルズやCCRの曲などに合わせ、大勢のお客様もリズムにあわせ体をうごかし、けっこう乗っている。
約10曲ほど歌ったあと、私を紹介される。ロックのあとに如何なものかとは思ったものの、いきなりTake Me Home Country Road(故郷に帰りたい)を歌い出すと、ほぼ全員が、立ち上がりグラス片手に一緒に大声で歌ってくれた。いろいろ心配したが、10時近く、無事になんとか終了。
歌い終わった途端にいろいろな人から声をかけられたが、苦手な英語で訳わからず!(おお恥ずかし!)
ステージに上るまでは緊張していたので、ワインも1杯だけに控えていたが、さあこれから飲もうとした時に、義妹から「さあ、もう遅いから帰ろう」、と言われ、ほぼシラフのまま仕方なく会場をあとにする。
義妹マネージャーには逆らえない、とはいえ、とても良い経験をさせてもらった。
小さな町で歌った小さな思い出だ。
思い出の日本武道館
リハーサルがはじまる。巨大なステージに上がり、まずトシがドラムスのスネアを勢いよくパ〜ンと叩く。そのとたん、会場内のいろいろな方向からパ〜ン、パ〜ン、パ〜ンとこだまのように残音が響く。ビビった。こんな残音の中で無事に歌いきれるだろうか?
昭和42年11月18日、当時大学3年生、はじめての武道館出演の印象である。
慶応大学の文化祭ともいえる「三田祭」の前夜祭が、ここ武道館で開催された。
慶応大学に縁のあるミュージシャンが多く参加する。私達「モダン・フォーク・フェローズ」にも声がかかり一世一代のステージとなった次第だ。
「ダークダックス」、「ワイルドワンズ」も出演したことは、なんとなく覚えている。もしかしたら、加山雄三のバックバンド「ランチャーズ」、YMOの高橋幸宏のお兄さんが所属していた「フィンガーズ」、フォークソングの先輩バンド「フォー・ダイムス」も参加したのだろうか、記憶は定かではない。
あのビートルズも出演した巨大なステージだ。我々はいったい何を歌ったのだろうか。当時、ラジオには度々出演していたものの、まだレコーディングはしていない頃だ。きっとPP&Mのレパートリーでも歌ったのだろう。
私は、ただ「武道館で歌った」という記憶しかない。きっと興奮のあまりに、ほかのことは一切忘れていたのだろう。
ところが、最近メンバーの一人が、そのときの記念のペナントを持っているという。そのような記念品が存在していることすら覚えていない。さっそく、当時のメンバーと一献やりながら、そのペナントのご披露となった次第である。慶応のカラー、ブルー、レッド&ブルーに色分けされたペナント、壁に飾るには、なんとなく抵抗のあるデザインだが、日本武道館に出演したという証には違いない。
※このページを更新してすぐに、ペナントを保管してくれていたメンバーからLINEが入った。
以下、原文のまま。
『当時、前夜祭の出場バンドを決める為のコンテストが開かれ、広い階段教室で出演希望のバンドが教壇で次々と歌い、私達は運良く人気投票で1位になったみたいでしたね。』
ということらしい。
どんぐりの思い出
この季節、散歩に出れば沢山のどんぐりが落ちている。多くのどんぐりは車に轢かれペシャンコになっている。歌にあるようにコロコロころがって谷にでも落ちれば、また実生となって育つのに。
あの小さなどんぐりが芽生え、何年か後には見上げるような大木に育つことを思うと自然の凄さを感じる。
小さい頃は「どんぐりの木」という名前の木があるのだと思っていた。どんぐりもよく見れば、大きいもの、小さいもの、細いもの、太いものなど色々ある。みな違う木の種だ。
私はグループホームで歌うようになるまで「どんぐりころころ、どんぐりこーー」、と歌っていた。正しくは「どんぐりころころ、どんぶりこ」ということを知ったときはびっくりした。60年以上も思い込んでいた歌詞は正しくなかった。よく考えれば、次の歌詞「お池にはまって さあたいへん」につながるのは、やはり「どんぶりこ」なのだろう。
この「どんぐりころころ」の歌には、にがい思い出がある。
小学校低学年の頃だろう。学芸会で、私はどんぐりになった。同じクラスの何人かが、先生のピアノに合わせてこの曲を歌い始めると、私は舞台の下手から上手までごろごろと転がるだけという役だった。ドジョウや、もうすこしマシな役にはついていれば、見に来ていた母も喜んだだろうに。 当時の私は、とてもデブだったので、先生はこのドングリ役を私に振ったのだろうか。なんとなく恥ずかしかったことを覚えている。
ストーリー性のあるこの曲だが、二番はドングリ少年が故郷を思い泣く、というところで終わっている。泣いて終わるのはかわいそうと、後に三番の歌詞が作られ、ハッピーエンドとなった。近い内にグループホームで、以下の三番も歌ってみようと思っている。
(三番)
どんぐりころころ 泣いてたら
仲良しこりすが とんできて
落ち葉にくるんで おんぶして
急いでお山に 連れてった
八小節の世界
以前にも書いたと思うが、毎月藤沢市の某グループホームで入居者の皆さんと大きな声で唄を歌っている。この10月で140回にもなった。コロナで行かれなかった2年間を除いても10年以上となる。
この季節になると「赤とんぼ」「旅愁」「里の秋」など、歌いたくなる曲が多い。日本の童謡、唱歌には季節を歌いこんだ素敵な曲が多い。
グループホームでは、歌と歌の間に、お喋りをしながらの弾き語りなので、その曲の内容や、曲にまつわる話も事前に用意する。
例えば、私の好きな「赤とんぼ」について、調べれば調べるほど、深いものがある。作詞の三木露風が幼い頃の実話を歌にしたものだ。ネットで調べれば、沢山掲載されている。論争もあれば、熱弁を振るっている投稿もある。興味のある人は是非のぞいてみると良いだろう。
この「赤とんぼ」わずか八小節の曲だ。これほど短い曲に、幼い頃の思い出や情感、景色までが歌いこまれている
調べてみると八小節の童謡・唱歌は以外に多い。「赤とんぼ」のほかにも「ぞうさん」「待ちぼうけ」「赤い靴」「揺籃(ゆりかご)のうた」「十五夜お月さん」「どじょっこふなっこ」「メリーさんの羊」「黄金虫」など、すべて八小節の曲だ。「ペチカ」に至っては、たった六小節で一曲になっている。短い曲だからこそ、歌うのもやさしく、覚えやすいのかも知れない。
童謡や唱歌以外にも加藤登紀子さんの「ひとり寝の子守唄」は八小節だ。
これほど短い曲でも、日本の原風景、季節、日本ならではの庶民の生活などがみごとに歌いこまれている。
話は変わるが、たまには今の歌も知らないと、と思い、たまにテレビの音楽番組を見るが、我慢して見ていても心に訴えかけてくれる曲は皆無だ。最近はダンスやテレビ映りが良くないと流行らないようで、覚えにくく、旋律も難しい。美しい曲がない。イントロ(前奏)だけで12小節以上ある曲も多い。そしてやたら長い。
映像優先とコンピューターミュージックの弊害だ。
たった八小節で、あれほど素晴らしい世界が描けるのにと思うのは、ジジババの時代錯誤なのだろうか。いや、そんなことはない。Simple Is The Bestなのである。
アコースティックな響き
鎌倉山の信号、地元では皆「ロータリー」と呼んでいるが、そこには昔ながらの焼物の赤いポスト、公衆電話ボックスに並び、小さなティサロン「鎌倉山倶楽部」がある。そこには毎夕のように、ご近所の方々が集っては楽しそうに過ごしている。まるでパリのサロンのようにコーヒー一杯、ワイン一杯で、ご近所同士の交際の場となっている。
開発がすすむ鎌倉山だが、ここに集う人は永年住んでいる人が多いのも魅力だ。
私は、10/19土曜の午後、その「鎌倉山倶楽部」でソロライブを開催した。駐車場もないので、ご近所の方だけが集う。小さな店内には20名以上の方が来てきただき満員となった。
今回は、久しぶりにアコースティック・ライブとした。俗にアンプラグド (Unpluged)と言われているが、マイクやギターアンプなど一切の電気機材を使わず、ギターそのものの音色と地声での弾き語りとなる。
通常はサポートメンバーのキーボードやベースなどが入ることもあり、マイクやミキシングアンプを使い、バンド全体の音のバランスを調整したり、声は電気的に加工し、エコーをかけたりして聞きやすくするものだが、今回はそういうわけにもいかない。ギターと声のボリュームも歌いながら自分で調整する。聞かせどころは、わざと小さな声で歌ったり、ロック調の曲では大きめにギターを弾いたりすることになる。
歌いながら、喋りながら、隅の方のお客様まで声が届いているのか心配しながらのライブだった。結果、ギターの生音が良かったと言っていただける方がいたのは嬉しいことだ。概ね成功というところだろう。
やっぱり、アコースティックの響きは良い。クラシック音楽以外では、楽器の生音を聞く機会は少なくなった。グランドピアノでさえマイクを通す時代だ。会場の広さや種々の条件もあるが、改めて今後も生音を大切にしていきたいと思う今回のライブだった。この機会を与えていただいたお店のオーナーとママ、そして多くのご近所の方々にこの場を借りて厚く御礼申し上げます。
「羊と鋼(はがね)の森」
もう、随分前に読んだ小説「羊と鋼の森」(宮下奈都著)が映画化されていたとのは知らなかった。偶然にWOWWOWでやっているのを見た。
この小説は、とても興味深く、面白く読んだ。ピアノの調律師の物語だ。「羊」とは、弦を叩くフエルトのハンマー、「鋼」とは弦のことだ。たしかに、グランドピアノの中を覗けば、これらのハンマーと弦は森のようだ。作者は主人公の育った森と、このピアノの森を実に巧みにミックスさせて表現している。
この本を読んで、そして今回の映画を見て、改めてピアノの調律がいかに大変な、そして大切な仕事かということを知った。
この本を読むまでは、調律とは、単純にピアノの音程を正確に調整するだけだと思っていた。しかし、音の特性、音色までも調整することができるらしい。たとえば明るい音にする、粘り強い音にするなど、演奏者や曲目にあわせてピアノの音質も調整するのだ。その調整のしかたは、小節でも語られているが、映像で見て具体的な方法を知った。
また、コンサート会場の広さ、会場による残響特性にあわせて、ピアノの音の広がりを調整するのも調律師の仕事とのこと。
映画ではサラッと触れているが、本では丁寧に紹介されているのが、グランドピアノの脚についている車輪の向きによる音の響き方の調整だ。あの小さな車輪が、それほどの影響を及ぼすということにびっくりしたものだ。
このように、原作と映画化されたものとの、表現方法の違いも興味深い。小説と映画の両方を見ることができて、ピアノに対する認識が深まったような気がする。
私がピアノを触るのはコード(和音)の確認ぐらいで、曲を弾くことはない、いや、できない。
この小説に出てくる印象的なフレーズ、映画にも反映されているある文豪の表現を「音」にしたらーー、
『明るく静かに澄んで懐かしい文体、少しは甘えているようでありながら、きびしく深いものを湛えている文体、夢のように美しいが現実のようにたしかな文体』
これを「響き」として調律するのが、本当の調理師らしい。そして演奏者は、楽譜を正確に音として再現するだけではなく、その響き、残音、共鳴、さらには作曲者の心情などを理解したうえで表現をしなければ一流とは言えないようだ。
私の苦手のクラシック音楽の世界だが、ピアノという楽器の持つ魅力、神秘、恐ろしさ、無限な音の世界を思い知る小説であった。
蛇足だが、映画の中に出てくる北海道の自然あふれる森の映像も、また素晴らしい。
「アーティスト伝説」新田和長著
日本のフォークソングといえば、リガニーズのヒット曲「海は恋してる」を思い出す方も多いだろう。そのリーダーだった新田和長さんが初めての著作「アーティスト伝説」(新潮社)を出版した。
彼が、大学卒業後東芝レコードに入社、名プロデューサーとして活躍していた頃の話が集められている。
同世代であり、同じジャンルの音楽を嗜好していた私は、さっそく購入した。
彼がプロデュースした数々のアーティスト、加山雄三、オフコース、フォーク・クルセダーズ、チューリップ、サディスティック・ミカ・バンド、ジョージ・マーティン(ビートルズのプロデューサー)、森山良子、坂本九などを始め、現在タレントとバイオリニストとして活躍中の高島ちさ子さんのお父さんの話など、とても興味深く読んだ。
ところどころにアメリカン・ポップス、フォーク・ミュージックなど洋楽の話が散りばめられているのを見るに、彼の音楽嗜好の根源は洋楽ということが分かる。
例えば、ブラザース・フォーの「サンフランシスコ湾ブルース」の間奏はグレン・キャンベルが弾いていたということは、この本を読んで初めて知った。当時、日本の多くのコピー・バンドがこの曲を取りあげているが、この間奏を完全にコピーしたグループは聞いたことがない。
グレン・キャンベルと言えば「恋はフェニックス」や「ガルベストン」など多くのヒットがあるが、彼がもともとは優れたギターリストということを知っている人は少ない。
その昔、リッキー・ネルソンが来日したときに、ものすごいテクニックのギタリストがバックを努めていたが、それがグレン・キャンベルと知ったのは後のことだ。
話はそれたが、新田さんの著作を読んで、当時の諸々の思い出が蘇った。
数々のニュー・ミュージック、和製フォーク・ミュージックを生み出した彼に敬意を評するとともに、同時代を過ごした音楽ファンには是非おすすめしたい本である。
嘆きのアンコール
会場では観客がざわめいている。楽しそうな話し声、笑い声も聞こえる。徐々に客席の照明が少し暗くなり、ステージのスポットライトに灯が入った。ざわめきはおさまり、いよいよライブの始まりである。
と、ここまでは良いのだが、いざ歌い始めると、自分の歌もギターも、とても満足のいくものではない。
いい歳をして、それでも請われて年間20回程度の弾き語りライブをこなしている。年に一回は少し大きなライブハウスで、娘のパーカッションを含めサポートメンバーをバックに歌うが、他の殆どは小さなカフェやレストラン、そしてグループホームや老人ホームが多い。企業や学校の旧友会などへの出前ライブもある。
私のような、道楽弾き語りでも、お客様は楽しそうだが、本心はどうなのか、もしかして楽しいフリをしているではないか、ということがいつも気になる。
裏を返せば、私が観客としてライブハウスやコンサートに行く場合もそうだ。アーティストに対するマナーと言うか、内心は気に入らなくても、その場は本心とは逆に繕(つくろ)う事が多い。
その最たるものが、アンコールだ。少なくとも私のライブでのアンコールは儀礼的なものではないかと思ってしまう。いつもの通りのマナーとしてのアンコールではないかと、思うことが多い。
外国のプロのミュージシャンは、日本ツアーを関西のステージから始めるグループが多いと聞いたことがある。関西の客は正直でブーイングもするし、気に入らなければアンコールもないという。日本人客の本音がわかりやすいという。それに対して関東は、有名なアーティストなら全て歓迎してくれる、ということらしい。
いつまで経っても自分の歌に自信が持てない私は、自分のライブは、集まっていただいたお客様同士の懇親の場を作っているという風に考えるようになった。私のライブに来て、初めて隣り合わせた二人が仲良くなった、ということもある。
アンコールは別れ際の曲でもある。恋人同士が、デートの別れ際に、もう一度振り返って、お互いを見つめ合う、という気分だろうか。
若い頃の素敵な人とのアンコールも懐かしい。
グループホーム弾き語り
毎月、藤沢市のグループホーム「K」で、M先輩と二人で歌っている。かっこよく言えば音楽療法だ。ここにはMの母上が入所していたこともあり、彼が一人で歌い始めたが、後に私も誘われて一緒に歌うようになった。グループ名は「K3B」(鎌倉山3丁目ボーイズ)。私の「ライブ記録帳」をたどれば、初めて行ったのは2011年9月となっている。
その後Mの母上は99歳で亡くなったが、その後も途絶えること無く継続し、いつの間にか毎月通い始めて13年も経っていた。
コロナで2年以上実施できないこともあったが、来月で140回にもなる。その間に、入居者の顔ぶれも随分変わった。
大きな声で歌う人もいれば、なかには急に怒り出したり、奇声を発する人、居眠りをしている人など様々だが、とても楽しそうにしている人が多く、そんな人達の微笑みを見ていると、私達もやりがいがあるというものだ。
レパートリーには小学唱歌、童謡を中心に、昔流行った歌謡曲も少し含まれる。M手作りの歌集には210曲が収められている。この13年の間に6版にもなった。彼は、思いついたら何でも実行するのが早い。版を重ねるごとに、あっという間に、自宅で歌集を20部も製本し、それをもとに入居者が毎月歌う。だが、入居者は歌集のページを捲るのもままならない。スタッフが右往左往して手伝っている。
毎回20曲を、おしゃべりを交えながら約一時間の弾き語りだ。
選曲は二人で交互にやるのだが、そんなに簡単なものではない。「あの歌を、みんなで歌いたい」、と思っていても、なかなか題名が思い出せない事が多い。
例えば「おてーて、つないで、のみちをゆけばーー」、「もしもし亀よ、かめさんよーー」、さらに「あれ松虫がないている、チンチロチンチロチンチロリンーー」、昭和生れなら、誰でも知っているこれら曲だが、あなたは歌の題名わかりますか?
長い間には、思い出深いこともあった。
「東京音頭」や「ソーラン節」を歌いだすと、踊りだす人もいた。
二人で歌集に収められている全曲の解説本「歌、そして心のささやき」も作った。
鉄道唱歌、「汽笛一声新橋を――」で始まり、毎月入居者の皆さんと一緒に5番ずつ歌い続け、一年かけて65番の神戸まで、すべて録音し、それをつなげて一曲に編集し、CDにして贈呈したのは印象深い。
きっと、そんなに遠くない将来、私もどこかの施設に入ることになるのだろうか、そんなときはギターと歌集を持って入居しよう、などと想像してしまう昨今なのです。
※先程の歌の題名。正解は「靴がなる」、「うさぎとかめ」そして「虫の声」です。
CD断捨離
音楽好きが昂じて、いつの間にかCDが数百枚も溜まってしまった。もう十年以上聞いていないCDもある。ほとんどがロック、フォークソングなどの洋楽のCDだ。十数年前に大量のCD専用の棚も作った。(写真) スペースの無駄もあり、思い切って整理しなおし、ついでに断捨離をすることに。
そのきっかけは補聴器である。
年齢とともに耳が徐々に聞こえにくくなり、はじめは集音器を使っていたが、とうとう2年前の正月から補聴器のお世話になっている。これで日常生活は事足りるものの、問題は音楽鑑賞だ。
補聴器もピンキリだが、それなりに高価なものを使用しているにも関わらず、音楽を聞いても、以前のように感動することは無くなった。補聴器を通しての音楽鑑賞では音質やアーティストの熱情が伝わって来ない。当然CDなどを聞くことも激減した。そこで、今回の断捨離となったわけである。
断捨離基準は1枚のCDに3曲以上の好きな曲、思い出の曲がある以外は、すべて廃棄する。2曲までのCDについては、その曲をパソコンにキープし、CDは廃棄だ。これで随分減ることになる。
アーティストの名前順に “A”から初めて、やっと “L”まで来た。写真でわかるように、約半分まで減っている。
耳が悪い上に、「耳管開放症」という病気にもなり、一時はとてもライブなどできる状態ではなかった。それでも予定していたライブには仕方なく出演したものの、一時は兄から、「おまえ音程が狂っているぞ」、とさえ言われてしまった。
その後、鍼灸院に通うことによって随分よくなった。今でも時々症状がでると鍼灸院に数回かよえば、よくなる。
そんなこんなで、コンサートやライブに行くのも少なくなったが、好きな音楽はやめられない。これからも要望があれば、できる限り弾き語りライブは続けていきたいものだ。
ショーちゃんが逝った
音楽のや舞台芸術、空間演出など幅広い分野での大ものプロデューサー川添象郎が逝った。私の妻の遠縁でもある。まわりではショーちゃんという愛称で呼んでいた。
ユーミン、YMO(イエローマジック・オーケストラ)、ガロ、小坂忠、サーカスなどを世に送り出した人物でもある。ミュージカル「ヘアー」の日本公演を成功させた頃は、六本木、赤坂界隈をミッキー・カーチス、ムッシュ・かまやつ、などと肩で風切って、闊歩していた。
何年も前のことだが、彼の親しい人から、あまり知られていない話を聞いたことがある。
フランスはカンヌで毎年開催されている音楽見本市ミデム(MIDEM)に村井邦彦(作曲家、プロデューサー)と川添が参加、多分1960年代初頭だと思う。そこでルネ・シマールという少年の歌手に一目惚れした二人は、なんとか日本で売り出せないかと画策した。
交渉するには音楽出版社など音楽関係の会社としての立場でなければならない。そこで二人は急遽、ありもしない会社を作ることにした。会社名はアルファー・ミュージックと決めた。
急いで当地の名刺の早刷り屋に飛び込んだのは良いが、英語の綴りの「Alpha」を間違えたのか、(印刷屋がまちがえたのか)「ALFA」という会社の名刺が刷り上がった。仕方なく、その名前で交渉。
なんと、そのルネ・シマールを東京音楽祭に招聘することに成功したのだ。東京武道館で開催された音楽祭では村井の作曲した「緑色の屋根」を歌い、なんとグランプリを獲得してしまった。審査員として来日していたフランク・シナトラもおおいに気に入り、「フランク・シナトラ賞」も獲得。しかし、日本での大ヒットには及ばなかった。
成功してしまえば英語の綴りなど、どうにでもなるものだ。
その後も会社名はそのままALFAとし、後に「ALFA レコード」を設立。ユーミンやYMOなどの大ヒットを数々生むことになる。
東京音楽祭も、ALFAレコードも今はない。YMOの高橋幸宏も坂本龍一も、そしてショーちゃんも逝ってしまった。
ショーちゃんは、大仕事もした。悪事も働いた。劇的な人生だったと思う。遠くに、あるときは近くにいたショーちゃん。向こうに行っても、じっとしてはいないのだろう。
ギターバンジョー
幼い頃、バイオリンを習いはじめ、以来70年、いろいろな楽器をいじくってきた。ウクレレ、エレキ、バンジョー、ピアノ、フラット・マンドリン、更に珍しい楽器では、オートハープ、ダルシマーなど、いろいろ興味を持って試したものの、なんとかモノになったのはアコースティック・ギターだけだった。
もう今更、他の楽器に手を伸ばすのはやめたものの、曲によっては「あの楽器があったらなー」と思うことも多々ある。
例えば、カントリーソングの場合、バックにバンジョーの響きが欲しくなる。
そこで、これならなんとかなりそうだと、ギター・バンジョーなる楽器を購入した。バンジョー・ギター、または6弦バンジョーとも言う。
あまり馴染みのない楽器なのでメーカーも限られる。とても高価なものか、信じられないほど安いものしかない。当然の流れとして超安価なものを購入。
自宅に届いて、段ボール箱から出してみる。見かけはピカピカの一流品だ。さっそくチューニングを始める。最後の一番細いE線を張り出したら、ピンッとコマから弦が外れてしまった。コマに切ってある溝が浅すぎるようだ。よっぽど返品しようかと思ったが、この程度なら自分で改良できそうだ。
そこで、以前ギターの修理に使ったヤスリを出してきて、コマの溝をギコギコ擦って少し深くする。写真のヤスリはギター弦の太さ別に6種類あるので、ついでに、すべての弦溝を加工し、少し深くした。
なんとか弾くことができるようになったものの、弦高が高すぎて弾きづらい。そこでコマの底辺を、ヤスリで削る。多少はマシになったが、皮の張りが弱いらしく、響きが鈍い。更に、ネックの形状が気に入らないので、これも改良したくなる。
今後しばらくは、このギターバンジョーのおもちゃ改良で工房に入ることも増えそうだ。
新作 替え歌
替え歌の歌詞もメロディも、さらにはギターコードさえ出てくるのに、オリジナルがなんという歌だったのかわからないことがある。最近悩んだのはヨドバシカメラのCMソング「新宿西口駅の前〜」ではじまる歌だ。果たして、これはなんという曲なのだろう。
そういえば子供の頃、同じ曲で、こんな歌詞をつけて歌ったこともあった。
おたまじゃくしは、蛙の子、
ナマズの孫ではありません
それが何より証拠には、
あとで手が出る足がでる
さらに、こんな歌詞もあったと思う。
権兵衛さんの赤ちゃんが、風邪ひいた
権兵衛さんの赤ちゃんが、風邪ひいた
権兵衛さんの赤ちゃんが、風邪ひいた
そこであわてて湿布した
みな、同じ曲の替え歌なのに、原曲がわからない。しかたなく、その旨を書いてSNSで問いかけてみたら、多くの人から返事をいただいた。(好き嫌い、評判はべつとして、こんなときにSNSは役に立つ)。
正解は「リパブリック讃歌 (The Battle Hymn Of The Republic)」という歌が原曲だ。なんと1861年に詩が書かれている。メロディはもともと別の曲だったが、讃美歌として歌い継がれているという。さっそく、その原曲をYou-Tubeできいたら、確かに聞き覚えのある歌詞でもある。
お調子者の小生は、オレも、オレもと、オリジナルの替え歌(なんだか妙な表現だが)を作った。題して「昭和あそびうた」。
以下の歌詞を「ヨドバシカメラ」のCMソングのメロディで歌ってみてください。内容がすべて分かる人は、間違いなく70歳以上の方だと思います。(興味のある方は下記に楽譜あり)
■昭和あそびうた
① あやとり、おてだま おままごと
戦争ごっこ 鬼ごっこ
メーンコ ベーゴマ かくれんぼ
ビー玉 缶蹴り ジェンケンポン
② 竹馬 凧揚げ 竹とんぼ
おはじき けん玉 紙風船
おしくらまんじゅう 紙芝居
だーるまさんが ころんだ
いかがですか。
近い内に月例で歌っているグループホームでお披露目しようと思っています。
「アケソラ」 サマーライブ報告
西鎌倉近辺には、ポツンポツンと料理屋が並ぶ。ファミレス、カレー屋、蕎麦屋、中華、寿司屋、韓国料理屋、そして四国の郷土料理といえば、今回ライブを開催した「アケソラ」だ。この店でのライブは今回で3回目となる。最初は眉をしかめていた大家さんも、今回は、「もっと大きな音でも良いですよ」と、言ってくれたそうな。
メンバーは今回も、ナカちゃん(竹内央子 P, Vo.)、吉田勝宣(B,Vo.)、そして私(G. Vo)の三人。この三人で演る場合が最近多い。たまに、グルー名を聞かれることもあるので、ナカちゃんと私の名字から「バンブー・ライス」というグループ名にした。
今回のライブ、予定では8/16(金)実施だったが、台風接近におののいて8/18(日)に延期しての開催となった。
17:45開場、あらかじめ予約したお客様は、まず愛媛名物のブリの海鮮丼とワンドリンク、浴衣で来た方は更にワンドリンクのサービスがつく、ということで会場は、浴衣姿のお客様が多い。そのまま盆踊りでも行かれそうな雰囲気だ。
ナカちゃんも、浴衣姿、なんとなく女将さん風でいい雰囲気。私も浴衣を着ようと思ったものの、ギターを持った私の浴衣姿は、まるで昭和の漫才師のようなので、今回はアロハとした。
ライブは18:30開演の2部制。休憩時間には、大ビンゴ大会も開催された。賞品は、愛媛ならではの砥部焼の食器やお米など豪華だ。大盛り上がりのビンゴ大会のあと、後半の演奏が続く。
今回は圧倒的にナカちゃんのファンが多く、彼女をヒューチャーした、ユーミンの「優しさに包まれたなら」やBIGINの「島人ぬ宝」、そして河島英五の「酒と泪と男と女」など新曲も多く、気が抜けないライブとなったものの、お客様には概ね好評のうちに、無事に終了。
私は、帰宅し、すぐプシュッ、プハーで一人乾杯。黄金色の爽快が体中に染み渡る。そして持ち帰ったブリの海鮮丼を、美味しくいただいた。
このお店「アケソラ」は、郷土料理と、うどんが旨いので、おすすめのお店です。
<お店情報>
「アケソラ」鎌倉市津1040-48
070-2282-1451
水・木 定休日
営業時間11:30〜14:00 17:00〜21:00
<240825>
右脳・左脳
私にとって、苦手なのは英会話と楽譜だ。それなのにライブでは、よく英語の歌を歌う。大学生のころ、山梨県清里の清泉寮に招かれ、アメリカ人の前で、アメリカンフォークソングを歌った。歌い終わったら「英語がうまいですね」と英語で話しかけられたが、その後の会話には四苦八苦した。グループの一員、大学で英文科にいた紅一点のメンバーが対応、私は肩身の狭い思いをした。
音楽が好きなくせに楽譜が大の苦手だ。これは小さな頃に通った鈴木バイオリン教室(後のスズキメソッド)の教育方針に影響する。今の教え方は知らないが、当時はいわゆる右脳教育だ。例えば、ビバルディのコンチェルトを先生の前で弾くのだが、楽譜は母親が横でみている。先生は次回のレッスンまでに楽譜のこの部分をもっと練習するようにと、母親に言っていた。はたして私の母親が楽譜を理解していたかどうかはわからない。しかし、この右脳教育のおかげで、後にエレキバンドを組んだり、フォークソングのバンドを組んだときも俗に言う「耳コピ」(音源を聞いて、そのとおりにコピーして演奏する)のは得意だった。適当に和音でハーモニーをつけたりする、いわゆる「音感」はよかった。
その反省も含め、娘二人はヤマハの音楽教室に通わせたので楽譜に苦労することはない。左脳教育である。ヤマハの最終目的はヤマハ製の楽器と楽譜の購買者を増やすことだから、当たり前といえば当たり前だ。そして、下の娘はプロの音楽家としてアメリカで活躍するまでになってくれた。
私は60歳を過ぎた頃に、楽譜に慣れるべくヤマノ音楽学校のピアノ教室に通った。多少はマシになったものの、自分のピアノの下手さにイライラしてしまい、やめてしまった。
その後、ギタリストの吉川忠英から声をかけられ、テレビで森山直太朗のバッキングのギターとヴォーカルを担当することになり、その楽譜が送られてきたのが、本番の二日前だった。ギターはなんとかなりそうだが、バッキングのヴォーカルは譜面通りでなければならない。あんなにあせったことはなかった。それでも、楽譜どおりのハモを猛練習、なんとか本番に間に合わせたことがある。
右脳、左脳、音感に頼るか、楽譜に頼るか、ミュージシャンによりその特性はちがえども、音楽世界の素晴らしさは変わらない。
さらに言うならば、もう少しマシな英語が話せたらと、今回は恥をさらして筆を置く。
ライブ、悩ましきは選曲
ライブをやるたびに悩まされるのが選曲だ。大体40分ぐらいのステージを、休憩を挟み2回やることが多い。全部で20曲ぐらいは用意しておかなければならない。老人ホームやグループホームの場合は比較的簡単に決まる。おもに小学唱歌、童謡、懐かしい歌謡曲を選んでおけば良い。
ライブハウスなどでやる場合、オリジナル曲や、マニアしか知らない歌ばかりだとお客様は退屈すると思い、よく知られている曲を半分以上は入れておく。
8/3(土)、午後6時から、「ビールを飲みながらオールディーズを聴こう!」という長いタイトルのライブに出演した。主催は西鎌倉地区社会福祉協議会、これも長い名称の会だ。会場は鎌倉山集会所。メンバー(写真)はナカちゃんこと竹内央子(ヴォーカル、キーボード、グロッケン)、カッチンこと吉田勝宣(ベース、ヴォーカル)、そして私がヴォーカルとギターを担当。
タイトルに「ビールを飲みながら」、そして「オールディーズ」とあるので、それなりに歳を召した方々が多いと思っていたが、来場した方の年齢の幅は広かった。小学生もいたぐらいだ。
さあ、難しいのは選曲だ。ライブのタイトルにはオールディーズと歌われているが、年代によって懐かしさが違う。今回歌った曲の中でも、例えば荒木一郎の大ヒット「空に星があるように」は、私の世代にとってはとても懐かしいが、50歳台の人は、しらない曲ということがわかった。反対に、今回歌った曲の中で、杏里のヒット曲「オリビアを聞きながら」なんていう曲に、私はあまり懐かしさを感じない。
それでも、無難に「Top Of The World」やCMソングでおなじみの「ウイスキーがお好きでしょ」などいれて、なんとか無事に終了した。お客様にはそれなりに喜んでいただけたようだ。
終了した翌日には次のライブの選曲を考える。
歌いたい曲とお客様が聞きたい曲の間(はざま)に、いつも悩んでいるのです。
以下、当日の選曲表
ライブハウス「ステージ・コーチ」
このライブハウスは、藤沢本町で4年、辻堂で35年、そして茅ヶ崎で3年、通算42年も続く湘南、いや国内でもめずらしい名門だ。
昔はカントリー・ミュージックが中心の店だったが、いまはジャンルにとらわれずに多くのミュージシャンが登場する。
さっそく余談だが、カントリー・ソングのことを昔はウエスタン・ソングと言っていた。そう言えば映画やテレビドラマのウエスタンもすっかり姿を消してしまった。テレビの「ローハイド」、「ララミー牧場」、映画では「リオ・ブラボー」、「真昼の決闘」など懐かしいね。
話を戻す。
先日この名門ライブハスに、グループ「Wish」の一員として初めてゲスト出演した。約40分間、9曲のステージだが、私だけ妙にトチリが多く、他のメンバーには迷惑をかけた。
私は、どういう訳かわからないが、初めて出演するお店では、必ずと言っていいほど、妙に緊張し、トチリが多くなる。お客様は料金を払って来ていただいているので、道楽だから失敗も、という甘えは許されないのだがーー。
それでも、満員のお客様、そしてメインをとった男性二人(カナマリさんとアミーゴさん)にも喜んでいただけたようだ。予定していなかったアンコールも頂いた。
最後はメインのお二人と、私達WISHも全員で「故郷に帰りたい」を合唱、お客様も大いに盛り上がった。
ライブが終わり、ギターを背負って外に出たら、まわりはビショビショに濡れていた。どうやら演奏している間に夕立があったようだ。
そのせいか少しヒンヤリした空気が、ライブの興奮を冷ましてくれた。帰宅してすぐに酒にすがりつき、あとひくトチリを飲み込んだ。
教える難しさ
私は、学生時代、当時のフォークソングブームに便乗し、「モダンフォーク・フェローズ」というグループを組んで、レコードを出したり、ラジオやテレビに出演したりしたものだ。その後バンドは休眠状態になり、58歳からは「Noppe Live」と銘打って、一人の弾き語りライブを続けている。
長い間、その様な活動をしていると、それなりに色々な声がかかるものだ。
もうずいぶん前になるが、スター音楽学院というところから学科に「フォークソング弾き語りコース」という科目を作りたいので、担当してもらいたいと声がかかった。安易な気持ちで引き受けてしまったのが間違いだった。
前にも書いたが、私のギターも歌も、すべて自己流であり、いままで教わったことがない。この弾き語りコースに応募した十名ぐらいの生徒たちに、どの様に教えて良いのかわからなかった。まあ、なんとなく自分流のギターの弾き方や、発声などを個別指導しながら教え方を模索していた。
「弾き語り」ということは、歌が「主」で、ギターは伴奏、つまり「従」である。それをいつも主張したのだが、ギターに夢中になり、歌は蚊の泣くようなか細い声でしか歌わない生徒が多かった。
さらに、リズムの取れない生徒も多かった。四拍子の歌なのに、妙なところで一拍抜けたりする。
表には出さない様にしていたが、こっちもイライラしてきた。
どうも私は指導者としての適性がないようだ。生徒はぜんぜん上達しないし、わたしも嫌になり、とうとう三年ほどで、知り合いのフォークシンガーに替わってもらった。
教える難しさを痛感したし、忍耐力も必要だった。
スポーツでも音楽でも一流の選手や有名なアーチストに、トレーナーがいるように、演じることと教えることは、どうやらまったく別の世界だとつくづく感じた。
とはいいながら、そのころの生徒の何人かとは、未だに酒を飲むことがある。教える適性はない私だが、酒飲み相手をつくることには長けているのかもしれない。
吉川忠英のこと
彼を知る人はみな「チューエイ」と呼ぶ。日本を代表するアコースティック・ギタリストである。大滝詠一・中島みゆき・松任谷由実・福山雅治・夏川りみ・加山雄三ほか多くのアーティストのギターを担当している。 そして、私にとっては学生時代からの音楽仲間でもある。
先日、彼の「焼き鳥やライブ」に行ってきた。店は東京四谷の地下にある「鳥せん」という店だ。決して広くはない店に、彼のファン30人ほどが肩を寄せあうように集った。生ビールを飲みながらのライブだ。彼はホーミーというモンゴル独特の歌唱法ができる数少ない日本人だ。いつもアンコールでは、このホーミーの入った曲を披露する。ライブ終了後に、次々と焼き鳥がふるまわれ、一風かわった、楽しい、そして美味しいライブだった。
彼は、私にいろいろな機会を作ってくれる。もう何年も前になるが、彼からの誘いがあり、NHK BSの「カバーズ」という番組で、彼と二人で森山直太朗のバックを勤めたこともある。
彼のCDに、私のグループ「モダンフォーク・フェローズ」が一曲だけ参加させてもらったこともある。
また、湘南でライブをするときには、いつも連絡があり。ゲストで参加することも度々だ。彼とのジョイントがきっかけで知った店で、私のライブもやらせてもらった。
定期的に日本全国でライブ活動をしている様なプロの彼が、私のような、道楽弾き語りに声をかけてくれるのは嬉しいことだ。
彼の奏でるギターには優しさが滲む。どことなく寂しさが響くこともある。たった六本の弦から醸し出される忠英サウンドは宙を舞い、心にしみる。
ライブ報告
アメリカの娘が夏休みで帰国すると、仲間を集めてライブ・コンサートをするのが恒例となった。年に一回の、私にとっては贅沢なライブである。
今回は、7月9日に藤沢のライブバー「オーシャンズ・ビート」(このお店の詳しいことは呑兵衛のページで紹介する)で開催した。
出演は、私(ギター弾き語り)と娘(パーカッション)のほか、ナカちゃんこと竹内央子(ヴォーカルとキーボード)、ベースにはカッチンこと吉田勝宣、ギターにシゲチャンこと小松重久の計5人編成。なんとサザンオールスターズと同じ編成だ。更に、ゲストとしてソノシゲ、Wish(カズとノンコ)、そして無理強いして店のマスター、バッキーさんも熱唱、超豪華なライブとなった。
このホームページでもお知らせしたこともあり、おかげさまで会場はお客様で満員となった。
楽屋内の話だが、いつもは別々の活動をしているメンバー5人が、計20曲近い曲を合わせるのは、そう簡単ではない。今回は、まず私が選曲の案をつくり、全曲の歌詞やコード表、曲によっては譜面、そしてデモの音源などの資料を作り、全員にネットで伝える。
余談だが、このような大量の資料を一発で全員にネットで送るのには「ギガファイル便」という無料のアプリを使う。これが、なんとも便利だ。
送った資料をもとに各自が練習した後、今回は鎌倉芸術館の練習室を借りて3回のリハーサルをやった。はじめは、なんとなくバラバラだったり、同じ箇所を何回も練習したりするが、徐々に息が合い始める。なんとか本番に、間に合わせ、さらに当日開場の前に通しのリハーサルをやる。そして本番の幕が上がる。
今回は、メンバーも去ることながら、お客様もけっこう楽しんでいただけたようだ。
プロも含め、こんな素敵な仲間たちと一緒のステージができることに感謝しつつ、つくづく非力な自分を感じる。歌もギターもすべて自己流、基礎的な知識もなく、楽譜は超苦手な私。それでも、お客様も含めみんなと一緒に音楽を楽しむことが出来ることに幸せを感じる。みなさん、心からありがとう。
音楽とスポーツ
内輪の話で恐縮だが、私の妻はテニス一家に育ち、大学を卒業後には、レッスンプロまがいの生活をしていた。たった一度だけだが現在の上皇后陛下美智子さまが妃殿下の頃にお相手もさせていただいたことがある。試合をして勝ってしまったらしい。美智子さまから「お上手ね」と声をかけられたとか。
一方、私は道楽の弾き語りを永年続けている。ギターも歌もすべて自己流だ。学生時代はグループを組み、58歳からはソロライブもはじめ、通算440回を数える。
若い頃は、妻と夕方いっぱい飲みながら、よくスポーツと音楽についての雑談もした。そして、両方に共通点が沢山あることに気がついた。
例えば、テニスの試合では勝ったときと、負けた時の疲れ具合が違うという。勝ったときの疲れは爽快だが、負けたときはグッタリと心身ともに疲れるという。
ライブでは、失敗もなく、お客様も楽しそうだったときは、良い疲れだが、お客様もまばらで歌もうまく歌えなかったときは落ち込む。
また、スポーツでも音楽でも、ちょっとした失敗が、あとあとまで尾を引くことが多い。
そして、テニスならダブルス、他のスポーツでもチーム制などで試合をするときには、自分と他のメンバーとの技量の差、気が合うか否か、センスの違いなどが結果に大きく関わる。
音楽でも同じこと。デュエットや、サポートメンバーなどが大きく影響する。
さらに、過激なスポーツは別として、テニス、ゴルフ、乗馬、弓術、など老齢になっても、けっこう楽しむことが出来る。もちろん観戦も楽しめる。音楽もしかり。
私の妻はテニスはできなくなったが、アメリカに住む妻の妹(75才)とブラジルに住む義兄(83才)は、未だにテニスをしているという。
私も喜寿を過ぎた今も、(補聴器を常用しながらだが、)ライブに出演しすることも多い。
音楽とスポーツに限らず、芸術を含むすべての文化は同じなのかもしれないと思う。
宮前ユキ トリビュート・ライブ
日本を代表する女性カントリー・シンガー宮前ユキ(以下ユキチャン)が亡くなって、はや十年。 命日の6月23日、彼女のトリビュートライブが銀座TACTで開催された。
私は、ムッシュことかまやつひろしと彼女の番組「ミュッシュとユキのドライビング・ポップス」というラジオ番組を担当したこともあり、公私ともども彼女の思い出が蘇る。
ステージは、最初に2012年、彼女が、アメリカはナッシュビルで開催されたグランド・オール・オープリーで歌った時のビデオが大型スクリーンに映された。ハモをとっているのは愛娘の有里知花(ゆうり・ちか)。
もう、この段階で目頭が熱くなり、いそいでハンカチをポケットから引っ張り出した。
そのご、ゲストシンガーが次々と登場。最初は有里知花。
藤沢にあったライブハウス「インター・プレイ」でユキちゃんが度々ライブをしたときも、知花ちゃんはいつも一緒にステージに立っていたので、私は、その頃からの彼女のファンでもある。時の経つのは早いもので、今は二人の母親とのこと。
その後も坂本愛江(カントリシンガー坂本孝昭の娘)、山下直子(ロカビリー歌手 山下敬二郎の最後の妻)、小松 久(ビレッジ・シンガーズ)が次々とステージに立つ。皆、素晴らしいが、バッキング「スノーボール」のメンバーも、今の日本のカントリー界の大物がずらりと顔を並べる。
少し長くなるが、素晴らしいメンバーなので簡単に説明したい。尾崎 孝(スティール・ギターの大御所、十数年前からいつもユキチャンのバックだった)、奥沢昭雄(彼もずっとユキチャンのバックバンド「スノーボール」のりーだーだった。巧みな技をもつギタリストだが、今回はサイドギターに徹していたのが印象的)、尾崎博志(エレキ 父はスティール・ギターの尾崎 孝)、岸本一遥(フィドル、いつもユキチャンのバックを勤めていた)
マイク・ダン(ベース、日本を代表するフージョンバンド「パラシュート」のスーパー・ベースプレーヤー)、沼直也(ドラムス)
このような素晴らしいメンバーだが、今回は余計なことは一切省き、完全にバッキングに徹しているのがさすがと思った。
ゲストがうたう歌も、ユキチャンのレパートリーを中心とは言え、カントリーの基本の基、「ジャンバラヤ」「コットン・フィールズ」「テネシー・ワルツ」、山下に至っては亡き夫の名曲「ダイアナ」まで飛び出した。
アンコールはユキチャンの代表曲「おまえとナッシュビル」を会場のお客様全員との大合唱となった。
久しぶりに、プロの、何にも衒(てら)うことのない基本的なライブを楽しんだ。
藤沢のライブでは、いつも私をステージに呼んでくれて「カントリー・ロード」を一緒に歌ったこと、そして、ユキチャンが僕に小さな声で話しかけ「今日、お父さんが亡くなったの!」と言ったのにびっくりし、これってプロなんだな、と感じたこと。 ムッシュかまやつと三人で大山に猪鍋を食べにドライブしたことなど、思い出が山のように蘇る、すてきなトリビュート・ライブだった。
悲しくて、やりきれない
表題は1968年にフォーク・クルセイダーズ(以下フォークル)がリリースしたヒット曲のタイトルだ。メンバーの加藤和彦が作曲、サトウハチロウが作詞した。
フォークルのメンバーが作曲したということもあり、グループが注目されたのは当然としながら、作詞があの有名なサトウハチロウということは、当時気が付かなかった人も多いと思う
サトウハチロウといえば、童謡の「小さい秋みつけた」「うれしいひな祭り」「りんごの唄」「お山の杉の子」など多くの作品がある。
この「悲しくてやりきれない」を、私がライブで新曲として取り上げるべく何度も歌っては練習しているうちに、心の中に訴えかける歌詞の素晴らしさに気がついた。
プロの作詞家の、なんとも広い語彙、多彩な表現力にあらためて敬服するとともに、日本語の素晴らしさを思い知らされた。
この曲は、そのタイトルどおり、どうしようもなく悲しい気持ちを表現している。その悲しい対象や原因は、この曲を聞く人によって、思うところも変わってくるのだろう。
失恋、別れ、中には仕事のことを思う人がいるかも知れない。
それでは、サトウハチロウは何を思ってこの詩を書いたのか。
彼の実の弟は原爆でなくなっている。彼は明言していないものの、その時の気持ちを表現したのではないのだろうか。つまり、この曲は一種の反戦歌ともとれる。
歌詞の全文は文末に紹介するとして。例えば以下のような表現は、私のような俗人では、とても思いつかない。
・今日も夢はもつれ、わびしくゆれる
・このもえたぎる苦しさは、明日も続くのか
・やるせない(心の)モヤモヤを誰かにつげようか(カッコ内は筆者加筆)
洋楽育ちの私は、旋律やハーモニーを重視してしまう傾向が常だが、私にとっての新曲、この「悲しくてやりきれない」は長く歌い続けたい曲になると思う。
「悲しくてやりきれない」 作詞:サトウハチロウ、作曲:加藤和彦
胸にしみる 空のかがやき
今日も遠くながめ
涙をながす
悲しくて
悲しくて
とてもやりきれない
このやるせない
モヤモヤを
だれかに告げようか
白い雲は 流れ流れて
今日も夢はもつれ
わびしくゆれる
悲しくて
悲しくて
とてもやりきれない
この限りない
むなしさの
救いはないだろうか
深い森の みどりにだかれ
今日も風の唄に
しみじみ嘆く
悲しくて
悲しくて
とても
やりきれない
このもえたぎる
苦しさは
明日もつづくのか
ザ・ベンチャーズよ偉大なれ
中学生の頃、ベンチャーズに憧れ、親にねだってエレキを買ってもらった。たしかテスコというメーカーだったと思う。レコードを何度も聞きながら、少しずつコピーをした。後に言う「耳コピ」は得意だった。
その頃の日本製のエレキにはトレモロアーム(曲の最後などにコード和音を歪ませる装置)はなかった。ベンチャーズの演奏を聞いて、いったいこれはどういうテクニックを使うのだろうと、さんざん迷い、いろいろやってみたが、とうとう出来なかったことも懐かしい思い出だ。仲間とベンチャーズのコピーバンドを結成、中学生にして生意気にもパーティを主催して演奏した事もあった。
音楽評論家の湯川れいこ氏曰く、ベンチャーズは「ビートルズより日本の軽音楽に貢献したグループ」とのこと。確かにそうかも知れない。ビートルズを聞く人は多かったが、ベンチャーズのようにコピーバンドで楽しむ人は少なかった。
私は、後に放送局に勤め、多くの音楽番組を担当したが、レコード会社やプロダクションなど音楽業界にはベンチャーズのコピーをしたことがある人が多かった。
そのベンチャーズだが、アメリカではあまり有名ではない。
アメリカのヒットチャート「ビルボード」誌の記録を見れば、全米ベストテンには「急がば回れ(Walk Don’t Run)」とテレビドラマの主題歌として「Hawai Five-O」の2曲しかチャートインしていない。私がアメリカに行った時にもベンチャーズを知っている人はいないので、がっかりした思い出がある。しかし日本ではサーフィンブームということもあり、前2曲のほか「10番街の殺人」「キャラバン」「ダイアモンド・ヘッド」など数多くのヒットがある。そのうえ加山雄三の「君といつまでも」ほか多くの日本の曲を演奏している。ほぼ毎年、来日してNHKの紅白歌合戦にも出演したことすらある。
初代メンバーは全員故人となったが、バンドは継続しているようだ。ときたま中古楽器店などでエレキをみると、あのウオーク・ドント・ランを弾いてみたくなる。
メシ屋で「ウオーク丼と卵(らん)」というメニューも良いね。蛇足!
残酷歌謡
もう十年以上、毎月M先輩とグループホームに出向き、ギターに合わせて、入居者の皆さんと大きな声で歌っている。大げさに言えば「音楽療法」だ。M先輩手作りの歌集には210曲もの歌が掲載されている(写真)。内容は童謡、小学唱歌、昭和歌謡などが多い。しかし、何度も同じ曲を歌いながら、ある時にふと気がつくと、その歌詞の内容にドキッとすることが多々ある。
童謡の中には残酷な内容の歌がけっこう沢山あるのだ。
「てるてる坊主」は、雨がやまなかったら首を切り落とす
「かなりや」は、いい声で鳴かなくなったら裏山にすててしまおう
「山寺の和尚さん」は猫をかんぶくろ(紙の袋)にいれて毬(まり)とする。
「あわて床屋」は、お客で来たうさぎの耳をうっかり切り落とす
「あんたがたどこさ」では、狸を撃って、煮て、焼いて食って、などなど、今の時代なら、動物愛護団体から抗議が殺到するような内容が多い。
ほかには、人身売買まがいの歌もある。昔は生活苦から口減らしと言って、子供を売ったり、他の家に奉公にやることが多かったことが童謡にも歌われているのだろう。
「花いちもんめ」の「花」は幼い子供のこと。「もんめ(匁)」は重さを測る単位と銀の通貨単位という2つの意味があるが、歌の中では後者の意味、つまり子供の値段を表しているというのが人身売買の歌と言われている所以だ。あの子がほしい、というのは子供の品定めをしている様子を歌っているといわれている。
また、「赤い靴」は海外に売られていく子供のことではないだろうか。
今の時代では考えられないような、残酷さ、差別など、昔はあまり気にしなかったのだろうか。
そんなことはさておいて、私達に合わせて、グループホーム皆さんが楽しそうに、おおらかに、懐かしそうに歌っている姿をみると、下手なりにも音楽を続けていて良かったと思う。
爺のたわごと音楽感
「流行歌にモノ申す」
1960年代、テレビでは数多くのアメリカの音楽番組が放送されていた。アンディ・ウイリアムス・ショー、マントバーニ‐ショー、 ペリー・コモ・ショー、エド・サリバン・ショー、など、私は食い入るように見たものだ。
その後、日本でも多くの音楽番組が放送されるようになった。私の覚えている限りではNHKの「夢であいましょう」、フジテレビ「夜のヒットスタジオ」、そしてTBS「ザ・ベストテン」が懐かしい。
特に「ザ・ベストテン」は私の同僚が担当していたこともあり、毎週楽しみにしていた。
これらの日本の音楽番組は全て生放送で放送されていた。特に「ザ・ベストテン」の演出は素晴らしかった。地方などでコンサートをしている会場から生出演させたり、生放送ならではの演出が多かったように思う。
私もトシを重ねたせいか、テレビの音楽番組を見る機会が減った。すこしは今の音楽に触れようと、年末の、いわゆる大賞モノの番組を我慢しながら見てみたこともあったが、その酷さに、とても耐えきれなかった。
テレビの普及とともに、ルックスやダンスが中心の歌手グループが台頭している。メロディラインがややこしい。その上グループ名も曲名も英語だったりすると、いったい何処の国の音楽かわからない。発声も滑舌も悪い。複数人数で歌っているのに、全員がメロディラインを歌ってる。すこしはハモったら良いのにと思うのだがーー。
いまや音楽はビジュアル系でないと流行らないようだ。そのむかし、ハンバーグと呼ばれた菅原洋一など、醜男(ぶおとこ)だが、歌はうまかった。
試しにオリコンの昨年の年間ベストテンを調べてみた。訳の分からぬ5つのグルーがしめている。個人の歌手はいない。やれ、ブレークダンスだとかラップだとか、どうも嘆かわしい限りだ。
流行を気にせず、素敵なメロディーとハーモニーを、ずっと聞いていたいと思うのは私だけではないだろう。
15 モダンフォーク危機到来
フォークソングと言ってもいろいろある。1960年代後半にアメリカから入ってきたモダンフォーク。その後、新宿西口に集まっては反戦フォークを歌った学生たち。70年代に入り「メッセージフォーク」や「四畳半フォーク」などというものなどもあった。
私が好きなのは、メロディラインが素敵なモダンフォークである。今まで、このページで紹介してきたのは全てモダンフォークのシンガーやグループだ。もちろん私達「モダンフォーク・フェローズ」もメロディラインやハーモニーを重視していた。ヴォーカルが四人いるので、ド・ミ・ソのスリーパートハーモニーにプラスして、ちょっとおしゃれなハーモニーを作るのが楽しかった。
そんなモダンフォークを歌うグループは、徐々に年齢を重ね、そろそろ危機の時代に向かっている。
私達のグループでは、当時べースと司会を担当していた影山民夫(写真左から3人目)と、綺麗な声のリード・ヴォーカル「ムーちゃん」こと新庄俊も (写真右から二人目)逝ってしまった。第一回ヤマハ・ライトミュージック・コンテストで優勝した「ザ・フロッギーズ」のベース、堀川君やリーダーの小山君も、もういない。「モダンフォーク・カルテット」の重見さん、「小さな日記」のフォー・セインツのダニー石尾も、ウエイフェアリング・ストレンジャーズの武田さんも、逝ってしまった。
若者のフォークシンガーをまとめ、ファミリー・ジャンボリーというコンサート集団を率いていた湯沢さんも、もういない。
皆、素敵な人達だった。
私はコロナ騒ぎ以来、自主的なライブはサボっていた。べつに怠けていた訳ではなく、耳の病気にかかったことも原因している。しかし、ある日ふと気がついたら、上記のようなことに気がついた。
これでは、いけない。まだ完治はしていないものの、この年齢になると、いつまで歌うことが出来るのか不安になった。そこで、多少調子が悪くても歌いたい。ということで、今後は少しずつ自主的にライブもやっていこうと思う。具体的な予定は、このホームページの「ライブ予定」に掲載していくので、よかったら冷やかしに来ていただければ幸いです。
このページでご紹介してきた、日本のモダンフォークを題材にしたシリーズは今回をもって、いったん終了し、次回の更新からは、「音楽雑事」と題し、ジャンルを問わず、音楽に関して思うことなど、書いてみようと思っています。
14「モダンフォーク・フェローズ」と「ベッツィー&クリス」の不思議な縁
1969年7月、ハワイから「サウンド・オブ・ヤング・ハワイアンズ」というグループが来日した。ハワイのカイルア・ハイスクールの生徒達約30名の若い音楽使節団だ。このグループの奏でるハワイアンと日本のヒット曲を集めた8トラック・カートリッジが「港町シャンソン/ヤング・ハワイアンズ」というタイトルでPonyPacレーベルから販売されていたらしい。
ところで8トラック・カートリッジとは何ぞや、と若い人たちは思うだろう。それは、カセットの前身とも言うべきもので、カー・ステレオでの使用を目的にアメリカで1965年に製品化されたものだ。
オープンリールと同じ幅のテープに8トラック分が録音されたテープが、弁当箱のようなカートリッジ・ケースの中にエンドレスで巻かれている。オープンリールと違い、簡単な作業で音楽が楽しめるので、車以外にも一般家庭や放送局などでも使用されていた。
話を戻す。このハワイから来た若者たちの中にベッツィーという女性がいた。彼女は、そのカートリッジの録音に際し、私達「モダンフォーク・フェローズ」がリリースした「さよならは言わないで」を歌ったという。私達がリリースしたのが同年6/1なので、そのわずか一ヶ月後になる。ハワイから来たベッツィーが、何故その曲を選んだのかはわからない。あくまで推測だが、録音されたのがニッポン放送の第1スタジオだった。わたしたちも度々このスタジオではお世話になったので、録音の際に関係者が、もしかしたらこの曲を彼女に推薦してくれたのかもしれない。
彼女は、後に一緒に来日した女性クリスと組み、あの大ヒット、ベッツィー&クリスの「白い色は恋人の色」を発表した。そのレーコーディングでベースを担当したのが、後に私達のグループにも参加した吉田勝宣である。
「モダンフォーク・フェローズ」と「ベッツィー&クリス」の、なんとも不思議な縁だ。私はベッツィー&クリスに会ったこともない。今となっては、この8トラック・カートリッジを聞く術もないのが残念だ。
13 南こうせつも歌った
「今日も夢みる」
南こうせつ(南高節 以下「こうせつ」)と私達「ザ・モダン・フォーク・フェローズ」(以下「MFF」)は、その昔、九州は大分で出会っているらしい。
1968年3月、MFFはアマチュア学生バンドにして、生意気にも福岡・大分遠征ツアーを実施。そのとき大分で高校生のこうせつは我々のステージを見ていたらしい。
こうせつは当事、大分県立大分舞鶴高校の3年生。当時、彼は「ヤング・フォーク・スリー」なる高校生アマチュアバンドを組んでいた。
メンバーは彼のほか伊勢正三、釘宮誠司の三人。
後1970年第一期「南高節とかぐや姫」を結成。当時のメンバーはこうせつ、森進一郎、大島三平。 翌年1971年9月には伊勢正三とシュリークスのメンバーだった山田嗣人こと、後の山田パンダを迎え、第二期「南こうせつとかぐや姫」を結成している。
彼がいた舞鶴高校は2010年に創立60周年ということで10月6日、その周年式典が「いいちこ総合文化センター・グランシアター」で開催された。 生徒や教職員、卒業生ら千人以上が出席したという。
そこでこうせつは、この「ヤング・フォーク・スリー」を再結成。なんと私達MFFの持ち歌「今日も夢みる」を歌い、会場からは大きな拍手がおくられたと言う。
後の話によれば、MFFが大分に遠征したとき、こうせつは我々のステージを見て、「この程度なら俺たちにも出来る」と確信したという。
時代は移り、私達MFFは大学卒業後一度解散。私はTBSラジオで「山本コウタローのパックイン・ミュージック」という深夜の生番組を担当していた。コウタローの仲間のこうせつは、ある晩ふらっとスタジオに遊びに来て、小生へひやかし半分で「今日も夢見る」を歌ったことがある。ちょっと、恥ずかしいような、それでいてすこし嬉しかった。今となっては懐かしい思い出である。
12「フォー・ダイムス」
1960年代後半、私の卒業した慶応大学にはジャズ、ハワイアン、カントリー、フォークソング、ロックをはじめ各ジャンルにまたがる多くのバンドがありました。
大先輩のダークダックス、加山雄三とランチャーズ、ワイルド・ワンズの加瀬邦彦さん、兄弟ユニット「ビリー・バンバン」のお兄さん等、そして先日亡くなったYMOのドラマー高橋幸宏のお兄さんもフィンガーズというロックバンドで活躍していました。
その頃の慶応のフォークソングのグループとしては、慶応世界民族音楽研究会(K.W.F.M.A)、先輩の「フォー・ダイムズ」、「ランブリング・バーミンズ」、同年代では「ニュー・フロンティアズ」と私達「モダンフォーク・フェローズ」といったところでしょうか。
先輩バンドでもある「フォー・ダイムズ」は「エルモ」というスキー同好会に所属する学生たちで1965年に結成されました。 オリジナルメンバーは山本峯生さん、岡村一さん、内田信夫さん、そして紅一点の村上和子さん。
メンバーの岡村一さんは、「小さなスナック」のヒットでおなじみのグループ「パープル・シャドウズ」のキーボード岡村右の実兄です。
彼らはPP&Mスタイルのグループ、1967/1/5に東芝EMIレコードからオリジナル曲「夕陽が沈む」をリリースしました。
大学生バンドの宿命というか、男性3人が卒業してしまうと、1年後輩の村上さんは1人取り残され、自然解散。
その後、彼女は同じ大学の後輩バンド「ザ・フォー・ミンストレルズ」という4人グループと一緒に「万里村れいとザ・タイム・セラーズ」というバンド名で、あの「今日も夢みる」をリリース(1968/3/10発売 東芝RMI)しました。
ちなみに、この「万里村」という名前は、ピーター、ポール & マリーの「マリー」と村上の「村」の合成とのこと。
その村上和子さん、と言うか万里村れいさんは、 1997年の春、30年ぶりに新生「フォー・ダイムズ」を結成。山本峰生さんに替わり、岡部仁さんが加わりました。
1999年には東京・六本木のライブハウス「スイート・ベイジル」で華々しく復帰コンサートを開催、自主CDを出版するなど積極的な活動をしていましたが、2005年12月には活動を休止。
その後、万理村れいさんは新たに「万理村れい&115」というグループを名古屋で結成。メンバーは万理村れいさんのほか第二期フォーダイムスの岡部仁、そして新たに名古屋在住の小林龍彦さん。2008年5月3日には名古屋の「パラダイス・カフェ」で、同月25日には東京・六本木の「KNOB」でライブを実施。 両会場とも、私とベースのカッチンこと吉田勝宣さんがお手伝いさせていただきました。その後、万理村さんはソロのヴォーカリストとして活躍中。幅広いレパートリーでお客様を魅了しています。
11 幻のフォーク・ソング専門誌
数十年も前のことですが、北海道にお住まいの氏家さんという方から、「FOLK VILLAGE VOICE」(1966年 11月号 Vol.2)という雑誌のコピーが送られてきました。 私は、この雑誌については、その存在さえも知りませんでした。 26ページのB-5版、一冊50円也。
特集記事は同年9月23日、新宿に開店した「FOLK VILLAGE」という店についてです。店内の小さなステージにPP&Mスタイルのバンドの写真。どうやらオープニングコンサートの模様と思われるます。
開店した頃、私もこのお店に何度か行ったことがあります。
この雑誌の記事によればコーヒー1杯100円とのこと、毎週土曜日には夜10時からオールナイトのコンサートもやっていたようです。写真にはVネックのセーターにポロシャツ姿、いかにもアイビールックの若者達が大勢写っています。
当時は、まだライブハウスという言葉もなかった時代に、このようなお店はフォークファンにとって、とてもありがたい存在でした。
話を戻して、この雑誌「FOLK VILLAGE VOICE」、別のページには「BEST OF
JAMBOREE」という記事があり、学生が運営していたコンサート「ジュニア・ジャンボリー」と「ファミリー・ジャンボリー」の人気投票の結果が紹介されています。
「ジュニア・ジャンボリー」では1位「ランブリング・バーミンズ」、2位 「ハミング・バーズ」、3位「ニュー・フロンティアーズ」。 「ファミリー・ジャンボリー」では、なんと1位に、私達「モダン・フォーク・フェローズ」、2位「フォー・セインツ」、3位「ブリケット・フォー」となっていました。 ちなみに私達「M.F.F」について、この雑誌では以下のように紹介されていました。
『第1位のモダン・フォーク・フェローズは、文字通りファミリー・ジャンボリーの看板スターだけに、文句のないところだろう。編成もP.P.Mスタイルの5人組から、最近は一人抜けて4人となった。全員慶応の学生で「セトル・ダウン」などはすでに定評があるーーー』
私は、当時このような人気投票があったことも知らず、約60年も経った今になっても、このようなお褒めの言葉をいただいたことは、嬉しいかぎりです。
いったいこの雑誌はいつ頃まで続いたのか、他の号ではどんな記事が載ったのかなど、今となっては知るすべもありません。(続く)
10「ジ・アイビー・トワインズ」の思い出
1960年代前半、日本のテレビから「ペリー・コモ・ショー」、「アンディ・ウイリアムス・ショー」、「マントバーニー・ショー」、「エド・サリバン・ショー」など、数多くのアメリカの音楽番組が放送されていました。
私は、これらの番組を喰い入るように見たものです。
それらの番組の中で、「ペリー・コモ・ショー」にレギュラー出演していた「レノン・シスターズ」という三人の女性姉妹グループのなんともスイートなハーモニーが大好きでした。
先日、昔のカレッジポップスやフォークソングのレコードを整理しながら、懐かしの「ジ・アイビー・トワインズ」の曲を聴いた途端、なんとも素敵なハーモニーが、当時のレノン・シスターズを彷彿とさせました。
「ジ・アイビー・トワインズ」は「レノン・シスターズ」に迫るグループだったのだと再確認した次第です。
「ジ・アイビー・トワインズ」、メンバーは(写真左から)湯沢裕子さん、国東美智子さん、高世のり子さんの三人。
当時、「ジュニア・ジャンボリー」や、湯沢さんのお姉さんが主催する「ファミリー・ジャンボリー」で、アイドル的存在でした。
このグループがリリースしたのは写真のEP盤1枚のみ。A面は都築新一作詞、青山靖介作曲「いつか見た青い空」、B面はメンバーの高世のり子さんの作詞・作曲「思い出の世界」。
今風に言えば「癒し系」というのでしょうか、単純な回転コード、単純なハーモニーではありますが、とっても心和む響きがあり、なんだか優しくなれるハモといった雰囲気が漂っていました。
例によってニッポン放送の「フォーク・ビレッジ」に何度も出演したり、レナウンのCMソング<レナウン娘>も歌ってました。
このグループのほか、「小さな日記」をヒットさせた「フォー・セインツ」、そして私達「モダン・フォーク・フェローズ」の三グループは、学生同士ということもあり、楽屋やスタジオ以外でも何かというと気兼ねなく、頻繁に集っていたような思い出があります。
当時、営団地下鉄の赤坂見附駅からすぐそばに「八千代」というレストランがあり、ファミリー・ジャンボリーのレギュラーメンバーの溜まり場になっていました。 そのお店の「鳥の包み焼き」(ピラフが鶏肉に包まれている料理)を食べながら、フォーク談義に花を咲かせたのも今となっては、懐かしい思い出です。
⑨学生バンドの進む道 後編
「今日も夢見る」
フォークソングファンなら、知っている人もいると思いますが、「今日も夢見る」という曲は、もう50年以上も前に、私の所属する「モダン・フォーク・フェローズ」がニッポン放送のスタジオで録音し、連日「ヤング・ヤング・ヤング」という番組で放送された曲です。この曲はこの番組で広く一般に募集し、多数の応募曲から選ばれた優勝曲です。当然のように私達に、この歌のレコーディングのお誘いがありました。 しかし、何をか言わん、当の私一人が反対してしまいました。言い訳がましいのですが、当時はレコードデビューということは、プロという考え方が一般的でした。私達の実力では、とてもプロとして通用しない、と私は思っていました。
アマチュア・グループとして、好き勝手ができる方が気分的に楽だという甘えもありました。
結局、私のためにメンバー全員にレコードデビューという好機を失するという迷惑をかけたような結果となりました。
そんなわがままなアマチュア学生バンドを前に、ニッポン放送と東芝EMIは頭を抱えてしまったのでしょう。
この曲のために「万里村れいとザ・タイムセラーズ」というバンドを作り、無事レコード化され、1968年3月、世に出たというわけです。
万里村れいさんは、「ザ・フォーダイムス」の紅一点、村上和子さんのこと。 「ザ・タイムセラーズ」の実体は慶応大学のグループ「ザ・フォー・ミンストレルズ」という4人のグループです。
その後、私達「モダン・フォーク・フェローズ」は、1年以上遅れること1969年6月に東芝EMIから「さよならは言わないで」のB面として「今日も夢みる」をリリースしました。
私としては、50年以上も前のこの話題、今でもなんとなく避けたい話題の一つです。(続く)
※ 以下YouTubeで私達の「今日も夢見る」を聞くことができます。https://www.youtube.com/watch?v=NmhnJZ8gZ5g
その⑧
学生バンドの進む道 前編
1960年代後半、日本における初期のフォークソングブームはアメリカのグループのコピーが大半をしめていたことは、既にご紹介しました。 日本でシンガー・ソングライターが注目され始めたのは、吉田拓郎やユーミンこと松任谷由実など、ニューミュージック系のアーティスト達が活躍し始めた1970年以降のこと。
それまでの音楽界は作曲家、作詞家、演奏家、歌手など、各専門分野が分業していました。
日本で始めてフォークシンガーという触れ込みのもとに登場したマイク真木さんのデビューヒット「バラが咲いた」は浜口庫之助さんの作詞・作曲ですし、その後もザ・フォーク・クルセダーズの「悲しくてやりきれない」はサトウ・ハチロウ作詞、「赤い鳥」や「トワ・エ・モワ」のヒット曲に至っては、ほとんど著名な作詞・作曲家によるものです。
アマチュアのフォークソングがブームとなった1960年代後半は、プロでなくても堂々と音楽を発表し、楽しむことが出来るというエポックメイキングな時代の過渡期だったとも言えるでしょう。
1968年、すぎやまこういち作曲、橋本淳作詞「亜麻色の髪の乙女」という歌をヴィレッジ・シンガースが歌い大ヒットしたことを覚えていらっしゃる方も多いと思います。 実はあの歌、最初にレコーディングの話があったのは、アマチュアの学生フォークグループ、「ザ・ニュー・フロンティアーズ」でした。
また、伊藤きよ子さんの歌った「花と小父さん」のヒットを覚えていらっしゃる方も多いと思いますが、そのB面の「星からの便り」という歌(両面とも浜口庫之助作詞・作曲)も、やはり最初は「ニュー・フロンティアーズ」にレコーディングの話があったとか。 理由は定かではありませんが、残念ながらニュー・フロンティアーズのレコード化は実現しませんでした。その後、彼らはアメリカに渡りEASTというバンド名でLPレコードをリリース、本格的に活動を始めました。
良い悪いは別として、もし日本でのレコーデイングがあったら、彼らの進む道も違っていたでしょう。(続く)
その⑦
PPMフォロワーズ
前回、MFQについて書きましたが、日本におけるフォークソングの夜明けを担ったもう一つのグループが「PPMフォロワーズ」です。
MFQを設立した吉田さんは、その後体を壊し活動をしていませんでしたが回復の後、小室等さんの誘いで、このグループに参加。それまではベースは弾いたこともなかったということですが、リーダーの小室等さんの厳しい特訓!!!と本人の涙ぐましい努力により、ベースをマスターしたということです。
当時のPPMフォロワーズはギターやヴォーカルパートから、ステージ上での動き方までまさに本家ピーター、ポール&マリー(以下PP&M)の完璧なコピーをしていました。
PP&Mのベーシスト、ディック・ケネス(Dick Kniss)の奏でるベースを私は大好きです。PP&Mの大ヒット「悲しみのジェットプレーン」のイントロ部分や「エヴリ・フラワー」の間奏(アルバム「SUCH IS
LOVE」)に流れる、ちょっとジャジーなべースの雰囲気が何とも言えず良いのです。 ほかにも彼はジョン・デンバーやメアリー・マクレガーのバックでも活躍しています。
当時PPMフォロワーズが録音し、パート譜つきで発売された赤いソノシートは現在でも多数の大学のフォークソングサークルで面々と伝承されているようです。そういえば先日、某コンサートホールの楽屋でアルフィーの坂崎幸之助さんも、このソノシートでギターの練習をしたと言っていました。
このグループのリーダーの小室等さんは、バンド解散後「上條恒彦と六文銭」というバンドを結成、「出発(たびだち)の歌」が大ヒット、現在は娘さんとのユニットなどでも活躍しています。 MFQ、PPMフォロワーズに加え、フロッギーズ、森山良子さんあたりが日本のフォークソングの先駆けとなった人たちでしょう。
当時としてはとても新鮮なアメリカン・フォーク、その素敵なハーモニーやメロディはまさに青春の1ページとして今も多くの人たちの心に刻まれています。
(続く)
その⑥
モダンフォーク・カルテット(MFQ) 結成50周年
私たちのバンド「ザ・モダンフォーク・フェローズ」に、かつて直木賞作家であった故景山民夫君がベースと司会担当だったことは前記しましたが、彼亡き後、なかば強引にわれわれのバンドに引っ張りこんだベーシストがカッチンこと、MFQの吉田勝宣さんです。
1964年、吉田さんは明治学院大学で学友二人(重見康一さん、麻田浩さん)とバンドを結成、さらに日大芸術学部に通っていた真木荘一郎(マイク真木)さんが加わり「モダン・フォーク・カルテット」(MFQ)が生まれたとのこと。
結成後まもなく、吉田さんは、(彼曰く)勉強のしすぎで病気になり、バンド活動が出来なくなったため、ギター担当は新メンバーの渡辺薫さんにバトンタッチ。
私が「ファミリー・ジャンボリー」や「ステューデント・フェスティバル」など学生の自主運営コンサートで度々MFQのステージを見ていたのはこの頃でした。
当時、渡辺さんのメロディの谷間を縫う様な素敵なギターワーク、ベースを弾きながら、ちょっと斜にかまえて歌う麻田さん、ウイットに富んだ重見さんのおしゃべり、そしてアイビールックに身をかためた真木さん、客席から見るMFQはまさに憧れの存在でした。
真木さんをはじめ、グループとしてもメンクラ(雑誌「メンズクラブ」)のモデルとして何回か登場したように記憶しています。
その後、吉田さんは体調が回復、小室等さん率いるPPM フォロワーズのベーシストとして参加、1969年に発売されたベッツィー&クリスの「白い色は恋人の色」のベースも担当しています。
その頃に前後して、吉田さんはMFQにベーシストとして再び参加、麻田さんはベースをギターに持ち替えました。そして、文頭にあるように吉田さんは私達「モダンフォーク・フェローズ」のメンバーにもなりました。
MFQ結成50年、渡辺さんは著名空間デザイナーになり、重見さんは帰らぬ人となりましたが、真木、麻田、吉田のオリジナルメンバーに加え、パーカションの女性メンバーが新たに加わって現在も精力的に活躍中です。(続く)
その⑤
東芝EMIレコードの「カレッジポップス」レーベル
前回はラジオ番組、ニッポン放送の「フォークビレッジ」について書きましたが、この番組と連携し、多くのアマチュア作品を世に出したのが東芝EMIレコードの辣腕プロデューサー高嶋弘之さんでした。高嶋さんは日本におけるビートルズの初代ディレクターでもあり、あの「抱きしめたい」、「涙の乗車券」、「ノルウエーの森」などの邦題は彼が名付け親です。
氏は、目下活躍中のバイオリンニストの高嶋ちさ子さんのお父さんです。
氏のお兄様は俳優の高嶋忠夫さんと言うか、氏は高嶋政伸と高島政宏の叔父さんと言った方が通じやすいでしょうか。
この東芝EMIレコードの高嶋さんとニッポン放送のプロデューサー有海さんが、熱心に若者の歌に耳を傾け、学生の主催する数々のコンサートに足を運びラジオで紹介する一方、番組のリスナーから広く歌を募集、その曲をアマチュアグループに歌わせ、番組独自のオリジナルソング「今月の歌」を発表していました。
それらの歌の評判がよければ、東芝EMIレコードから「カレッジポップス」シリーズとして発売されました。
ラジオの番組をきっかけに商品開発されるという、後にも先にもあれほどのマーチャンダイジング力を持つ番組は未だ見当たりません。
私達「ザ・モダンフォーク・フェローズ」も「今日も夢見る」、「朝焼けの中に」、「一人ぼっちの雨の歌」、「さよならは言わないで」「別れ」の5曲をリリースしました。このようにして生まれたカレッジポップスブームも、時代の流れと伴に、徐々にメッセージフォークや関西系のフォークソングに替わっていきました。(続く)
その④
■フォークソング・ブームはラジオから
■フォークソング・ブームはラジオから
1960年代後半、ニッポン放送の「バイタリス・フォーク・ビレッジ」という番組では、毎晩アマチュアのフォークシンガーやグループの歌や演奏を紹介することで一大フォークソングブームを作りました。
森山良子さん、マイク真木、ブロードサイド・フォー、ザ・リガニーズ、フォー・セインツ、フォーク・クルセイダーズ、吉田拓郎、ビリー・バンバンなど、この番組出演がきっかけで、後にプロになったグループやシンガーは大勢います。私の所属していた「モダンフォーク・フェローズ」も度々出演させていただきました。
この番組に情熱を傾けていたのがニッポン放送の辣腕プロデューサー有海喜巳夫さんとディレクターの島田さん。 毎週土曜日の午後、有楽町にあるニッポン放送の第一スタジオで根気よくアマチュアの歌や演奏に対しアドバイスし、録音し、育ててくれました。
ラジオから自分たちの音楽が放送される、という魅力は当時のアマチュア・ミュージシャンの誇りとも言えました。
エイズ基金コンサートなどを仕掛けた大物プロデューサー金子洋明さんは、この番組の制作スタッフとしてスタジオでよくお目にかかりました。 当時、彼は「スチューデント・フェスティバル」というアマチュア・フォークミュージック団体の主催者でもありました。
和製フォーク・ソングと言えば、ベトナム戦争が泥沼に入った当時、新宿西口に集まっては反戦歌を唄っていた人達も、時代の象徴でしたが、この番組「バイタリス・フォーク・ビレッジ」はキングストン・トリオ、P.P.&M、ブラザース・フォーなどのアメリカン・フォークソングのコピーバンドをはじめ、どちらかというと洋楽風な曲を得意とするバンドを中心に紹介していました。そんな都会的なスマートさもあり、この番組から前記したような多くのプロミュージシャンが羽ばたいて行きました。
その③
「慶応大学のフォークソング グループ」
慶應大学で私達は「モダン・フォーク・フェローズ」というグループを組んでいましたが、他にもこの大学には前出の「ニュー・フロンティアーズ」、先輩には「フォー・ダイムス」や「ランブリング・バーミンズ」というグループがいました。
「フォー・ダイムス」はニ年先輩の岡村さん、内田さん、山本さん、そして一年先輩の紅一点村上さんという4人グループ。 私達と同じく「ピーター、ポール&マリー」スタイルのグループでした。
「ランブリング・バーミンズ」は一年先輩の北条さんと、当時学習院大学の黒川さんのデュエットグループ。彼らは「ブラザース・フォー」のナンバーをやっていたような気がします。北条さんは、その後㈱電通に就職、スポーツ・文化事業部で、本家ブラザース・フォーの招聘関連の仕事をやっていた様です。
また、「フォー・ダイムス」はメンバーが代わり、詳しいことは分からないのですが、私達と同期の岡部仁君が加わりました。
私達を含め、これらのグループは自主的な活動であり、大学の公認団体ではありませんでしたが、その後「K.W.F.M.A」(Keio World Folk Music Association)という大学公認のクラブができました。
このクラブを立ち上げる中心となっていたのは、当時「ニュー・フロンティアーズ」のベースを担当していた福山敦君や、現在私のライブにもゲストとして登場する三宅俊介君ほか、数名のメンバーです。この「K.W.F.M.A」は「ニュー・クリスティ・ミンストレルズ」風のシングアウト系グループ。 彼らの十八番「ソーラン節」のアレンジは秀一でした。 このクラブ創設以来、中心となって頑張っていた福山君は「ニュー・フロンティアーズ」から後にプロのベーシストとして加藤登紀子さんのステージなどで活躍していました。そして、このグループでドラムスを担当していた松本君が、前後して私達「モダンフォーク・フェローズ」のメンバーとして加わりました。
ドラムスが加わったことで、それまでの比較的おとなしいフォークソングから、ママズ&パパスなどフォークロックのコピーもするようになりました。